2019年9月15日、チョン・ウォルソン(田月仙)さんのオペラ『カルメン』を観に行く。・・・・・ウォルソンさん演じるカルメンが冒頭に歌うシーンから、ウォルソンさんの声、立ち姿が美しすぎて、涙が零れ止まらず困った。声の張り、清澄さはむろんのことだが、うんと小さな声からうんと大きな声まで瞬時に、自在に使い分ける高度な技術、全身に張り巡らされた神経の細やかさ、にも拘わらずまったく動じることもなく立ち尽くす身体、その線の美しさは、まさに私の心を捉えて放さない津軽の老松、桜などの「巨木」そのものだった。三木成夫(解剖学者)は、人間の心は植物的器官によって作られると言ったが、それに倣えば、ウォルソンさんは巨木=植物的身体と化すことでカルメンの、あるいは物語世界の心を創造し、と同時にそうすることで身体の内側に抱えているウォルソンさんの心のすべてが、自ずと外側に溢れ出てしまう。その心に私の内臓が感応し、はげしく揺れ動いて涙が零れたのだろう。
登場人物は他にメイン人物の、ドンホセ(松村英行)、エスカミーリョ(井上雅人)、ミカエラ(城田佐和子)の三人だが、この三人も本当に素晴らしかった。一切小手先ナシ、大であれ小であれ全身で声を発し、ウォルソンさん同様、巨木と化してそこに立ってみせるのである。いまの日本人の大多数が放つ心のざわめき(不安定)などまったくないから、たとえば小さな歩く音さえ見事に表現として、劇として立ち上がって来るのだ。
互いの歌によるやりとり(会話)も本当に見事だった。オペラにしろ演劇にしろ、何よりも大事なのは相手の声を、流れる演奏、音楽を「聞き」「分ける」ことができるかどうかである。それができれば声(科白)は自ずと相手に向かって出ていくし、音(演奏や効果音)にも乗れる。そのチカラを失ったから日本の演劇はいまや壊滅してしまったと言ってもいいが、ウォルソンさんをはじめこの四人は、驚くほどの「耳」を持ち、「耳」で劇を創っていくから、カルメンの物語が、世界が自ずと立ち上がっていくのだ。一言で言おう。「目」で舞台を創っていく蜷川幸雄の劇は目の見えないひとたちにはさっぱりわからなかっただろうが、「耳」で劇を創っていくこの四人の劇は間違いなく目の見えないひとたち、ひいては目も耳も失ったひとたちにすら、確実にその劇が伝わるのは間違いないのだ。
演奏と言えば、ピアノ(追川礼章)一つなのだが、これがまた凄かった。歌い手の四人同様、いまその場で四人の声と心を「聞き分け」、四人同様に声=ピアノを発していくのである。カーテンコールでお客さんは追川さんに盛大な拍手を送っていたが、私もこんなに素晴らしいピアノを生で聴くのは初めてだったかも知れない。
もう一つ、言っておきたい。劇場は普段のまま、つまり「素」の状態だったのだが、この五人はその劇場を見事にカルメンの世界に仕立てた。私はかつて「何もない空間」を主題にしたピーター・ブルックの舞台を生で二度見たことがあるが、彼だってこんなに見事に「何もない空間」をそのまま劇空間に創りあげることはできていなかった(笑)
ちなみに私が一緒に舞台を創ったり、あるいは他の舞台・ステージを観たりした中で、この五人同様の創作を行えたのは音楽をやっているエンケン(遠藤賢司)、泉谷しげる、三上寛、演劇俳優で言えば李麗仙、四谷シモン、杉祐三(新転位・21)ほか二、三人ほどである。「耳」が絶対条件の音楽家が抜きん出てるのもわかる。
このステージの出演者たちは他に、韓国から来て頂いた音楽家たちである(写真3) 「カルメン」が始まる前に、カルメンの音楽を演奏してくれた弦楽器楽団の演奏も本当に素晴らしかった。楽長のように演奏時に身体を振らずに演奏できるようになったら世界でも有数の楽団に成長するに違いない。身体を振ってしまうと、そのぶん音が聞き取れなくなるからだ。
こんなに素晴らしいステージを観たのは、ほんとうに初めてだったかも知れない。60年代末、初めて状況劇場を観たとき以来と言ってもいいかも知れないが。チョン・ウォルソン(田月仙)さんを初めとする出演者のみなさんに、心から感謝したい気持ちでいっぱいである、
※2019年の「カルメン」はハイライト公演でしたが、
2023年9月30日の公演は、全幕の本格オペラです。
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